クリスマスの起源は古代ローマの異教の冬至祭(太陽神ミトラの誕生を祝う祭)であるとされ、クリスマスを祝わないことにしている教会もあります(エホバの証人も拒否している)。確かに12月25日という冬の寒い日に家畜小屋でキリストがお生まれになったとは思いません。羊飼いが戸外で寝ずの番をできる季節でもありません。しかし、地上にお生まれになったことは事実であり、キリストの来臨が世界を変えたのですから、その日を定めてお祝いするのは当然のことだと思います。
また、教会はクリスマスの祝会を自粛すべきだ、というクリスチャンもいます。貧しい人、孤独の人、病気の人たちにとって、みんなが楽しそうにしているクリスマスシーズンは、自分の不幸がなお一層身にしみる時だからだ、というのです。確かにそうです。私も子供の頃、クリスマス、正月の家庭の暗さは辛いものでした。東京で孤独な学生であっときも寂しさは募りました。「いのちの電話」によると、自殺志願者が増えるのだそうです。以前、病院やホームや施設を訪問したときも、年末年始は気がめいると聞かされました。
しかし、だからといって、クリスマスは教会が同じ暗さの中に沈んでいるべき時ではありません。「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」(マタイ4・16)のですから、私たちはキリストの御聖誕を精一杯喜び、感謝し、祝うべきです。クリスマスはその喜びの中に人々を招き入れる時です。一緒に喜ぶ時であって、一緒に悲しむ時ではありません。
イエスがお生まれになった日、社会の最底辺にいた羊飼いたちに現れた御使いは、彼らに「あなたがたの辛さを共にいたむために来た」とは言いませんでした。「素晴らしい喜びを知らせに来た」(ルカ2・10)と告げたのです。
共に悲しむことを否定しているわけではありません。ただ、クリスマスは喜びを伝え、共に喜び楽しむ時であることを忘れてはならないと思うのです。でなければ、神の子が神のあり方を捨てて人となり、私たちを豊かにするために貧しくなってくださったというクリスマスの意味がぼやけてしまいます。
クリスマスから正月を寂しく過ごすと思われる人に、キリストが来られた喜びを伝えるために、一人でいいので、クリスマスカードか年賀状を出すことをお勧めします。