点で話しにならない?

「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」(マタイ5・18)

 「話」。何と読みますか。点のために「話」という漢字にはなっていないので、「てんではなしにならない」と読みます。小さな点がすべてを台無しにしているわけです。
 先ごろ、ある方にeメールを送りましたが、届かずに戻ってきました。2度目も戻ってきました。その方に電話でアドレスを確認したら、.が抜けていることがわかりました。たった点(ドット)一つでコンピュータは受け取りを拒絶するのです。その方は「点で物にならなかったのですね。イエスさまのお言葉通り一点一画もおろそかに出来ないと教えられました」と書いてこられました。
 コンピュータは私たちに完全を要求しますが、律法はそれ以上の厳しさで一点一画について完全を要求します。しかし、神はキリストの十字架ゆえに、律法のすべてが成就したと認めてくださいました。つまりキリストを信じる私たちを、律法の一点一画の過ちゆえに永遠の滅びに突き落とすようなことはなさらないのです。神は私たちに一点一画の失敗があっても、完全と認めてくださいます。ここに神の愛があります。
 私たちもまた愛があるなら、コンピュータとは異なり、点一つでメールを拒絶しませんし、「話」と書かれていても「はなし」と読んであげる寛容さを発揮できます。愛が不完全を完全にするのです。
 オランダの老オリエント学者の話。彼はお昼になったのに食堂に来ません。妻がしびれを切らせて書斎に行ったら、彼はセム語の文献に没頭しています。「今は昼食どころではないんだ。ここに母音記号があるだろう。こんな点は今まで見たことがない。気が変になりそうな点なんだよ。」妻は、点一つで家庭生活の秩序を乱すなんてと思いながらも、微笑みながら言いました。「随分悩んでおられるようですが、私が一吹きすれば解決しますわ。」彼女がぷっと吹くと、問題は跡形もなく消えてしまいました。夫を悩ませた点とは一粒のゴミでした(キルケゴール)。
 愛は、私たちを苦しめる「点」を軽く吹き飛ばします。汚点であっても。