「神はただみ心のままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもって予め定めておられたのです。」(エペソ1・5)Ep05
子供の頃、友達の親を見て、ああいう家の子に生れたかったと思ったことはありませんか。逆に親になって、うちの子もああいう子であればいいのにと思ったことはありませんか。この両親が自分の両親でよかった、この子が自分の子でよかったと感謝できる人は本当に幸せな人だと思います。
私たちは親を選びたくても選べません。子を選びたくても選べません。しかし聖書は、父なる神は私たちを選び自分の子にしようと予め定めておられた、というのです。しかも、その動機は愛です。父なる神にとって、反抗的で罪深く不完全な私たちを自分の子にすることが名誉なことであるはずありません。なのに愛だけを理由に、子にしてくださるのです。神が私たちを子と呼んでくださり、私たちが神を父と呼べるとは、私たちにとってこれ以上名誉なことはありません。
ところで、私たちが神の子とされるのは、「キリストによって」です。つまり、神の実子であるキリストの「花嫁」となることによって、神の家族に入るのです。王の子となるには、王子か王妃と結婚するほかないように、キリストの花嫁となる以外に神の子となる道はありません。キリストの花嫁となるとは、キリストを救い主として信じ、心にお迎えすることです。
神の子とされれば、卑屈な思いから解放され、神の愛の中で憩うことができます。自分が自分であることに、感謝と喜びを感じるようになります。これも3節に記されている「天にある霊的祝福」の一つです(Ep04)。
あなたは「神の子にされた者」という自覚をお持ちですか。神がせっかく私たちを自分の子となさったのに、父を無視しているとしたら、どんなに父を悲しませることでしょうか。でも私たちが無視しても、神は父としていつも私たちを見守っておられます。