「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」(エペソ1・2)
「恵みと平安」は、パウロやペテロが書簡の冒頭で使っている言葉です。使徒時代、互いに交わした挨拶だったようです。しかし、単なる挨拶の言葉ではありません。
今回は、恵み(ギリシャ語でカリス)だけを取り上げます。恵みは神から無償でいただく良きものを意味します。信仰、愛、罪の赦し、聖霊の導き、癒し、永遠の命・・・これらはすべて神から受ける特別な恵みです。私たちの信仰生活はこの恵みを土台としており、恵みなしには成り立ち得ません。
神の恵みは、「立派な行いをした」「献金や奉仕をした」「熱心に祈った」・・・からいただけるというものではありません。恵みを豊かに受けても、自分の人徳であるかのように誇ることはできません。逆に、受けた恵みを「借り」のように感じて、義理堅く「お返し」をするというのも正しくはありません。自分の力で恵みを得られる、返せると思うのはむしろ傲慢です。それゆえ神は謙遜な者を選んで恵みを豊かに注がれます。人はただ信仰によってへりくだり、感謝して受け取るのみです。それが恵みの原理です。
ところで、なぜ恵みはただなのでしょうか。それは恵みをただにした方がおられるからです。もしあなたが高価なメロンをいただいたとします。それをあなたに差し上げた人は、自分でお金を払っているはずです。つまり代価が支払われたから、ただなのです。神の恵みも、キリストが十字架上で代価を払われたから、ただになっているのです。神の恵みの背後には、十字架という想像を絶する犠牲があったことを思い起こすべきです。
恵みの豊かさに慣れ、当然のごとくに考え、感謝することを忘れないようにしましょう。