深く愛するために

日本での1年間の残飯は、お米の年生産量と同じ1000万トン、毎日、東京都内で捨てられる残飯量だけで、開発途上国の50万の人々が生活できるそうです。
飢えたことのある人は食物のありがたさを知っています。私の年代(50歳)以上の人たちは子供の頃豊かではなかったので、食べ物を残すことはできないでしょう。しかし、満ちあふれた中で生活していると、食物のありがたさが切実にはわからなくなってきます。

大病を患った人は健康であることの喜びを知っています。心身ともに問題のない人には、体や心が不自由になることの辛さは実感できません。足が不自由になると、わずかな段差でさえもつまずきになると聞きます。駅のエスカレーターは本来体の弱い人たちのためにあります。元気な人は健康の喜びを忘れ、無意識にエスカレーターに乗ってしまいます。年を取るまで楽しみにとっておいたら、そのありがたみもひとしおでしょうね。

日本は物が満ちていても、愛に飢えているとマザーテレサが言いました。愛に飢えてきた人は愛される喜びを知っています。お金や地位や外見で受ける偽物の愛にうんざりしてきた人は、本物の愛を何にも代えられないと思います。しかし、愛されることだけに慣れてくると、愛の喜びを失います。

そして、自分の罪深さを知っている人は、罪赦されることの感謝と喜びを深く知って います。しかし、日本人は自分の罪深さがなかなか実感できません。私もそうでした。私は罪深いからクリスチャンになったというより、クリスチャンになってから罪深さを知ったと言えます。なぜわざわざ罪深さを知るべきなのでしょうか。赦された喜びを知り、より深く愛する者になるためです。

イエスは罪深い女に言われました。「この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」(ルカ7・47)。