偉大な光が上った

家族連れでにぎわうレストランで、Aさんが夕食をとっていた時、突然の停電に襲われました。一瞬にして中も外も真っ暗。BGMは止まり、店内には不安の静寂が漂いました。幼児が泣き出します。暖房が切れて暖かさも失われていきます。

 その暗闇の中で、「あの時もそうだった」と十三年前のことを思い出していました。突然の病気で、一瞬にして暗闇の底に突き落とされたのです。病気は難病で長引き、仕事を失い、やがて愛する人にも去られてしまいました。

 「人は光の中で暖かく暮らしていると思っているが、それは錯覚。実は、冷えきった真っ暗闇の中の孤独こそが人間の真の有様なのだ。病気になったり愛する人や大事なものを失ったりすれば、人間は暗闇の中で生きていることを思い知らされる・・・」

人の心には、孤独、空虚、疚しさ、恐れという闇があります。友に囲まれているようでも心を許す交わりはない寂しさ、働いて食べるの繰り返しで老いていく空しさ、仮面をつけて見せかけの自分でしか生きられない悲しさ、死への恐れ。そうした闇を、忙しさや何かに熱中することで忘れようとしているのです。それは、真っ暗で寒くて寂しい冬の夜を、「人工的な光と熱と音」で欺いているのと同じです。しかし、停電になれば闇の中に置かれるように、健康や愛を失えば闇の中に取り残されたことを思い知らされるのです。

「私は偽りの愛、偽りの希望をつかまされ、偽りの幸せにしがみついていた。しかし、人間の闇の現実を思い知らされたのは、私には幸せだった。偽りの光が消えて、闇に包まれなければ、本物の光には出会わなかったことだろう・・・」

作家の故三浦綾子さんは、死の病に臥し虚無の中で自暴自棄になっていたとき、前川正という人の命がけの愛で生かされた人です。彼女は「本当に闇を知った者でなければ、光のありがたさはわからない」と書き残していますが、同じことがAさんにも起りました。

クリスマスが近づいた頃――それは孤独な人がより孤独を感じる時節です――生きる気力を失っていたAさんは、思いがけぬ知人の訪問を受けたのです。知人はベッドのそばで、聖書を開きその一節を読んでくれました。

「暗闇の中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」

初めて聞く聖書の言葉でしたが、Aさんはまさに自分のための言葉だと思いました。「偉大な光」とは神の子キリストであり、この方を信じるなら、その人の心に住まわれ、その闇を照らす――そう語る知人の声には静かな確信が満ちていました。その後も、知人は時間があれば病室に現われて聖書を読み、キリストがどれほどAさんを愛しているかを説明してくれました。Aさんは、この人の心には本当にキリストの光が輝いていると感じ、年の暮れにはキリストを信じる決心をしました。

「あのときキリストを知らなければ、私は年を越せなかったかもしれない。」

まもなく病気も快方に向かい、春が来る前に「偉大な光」を心に受けた者として社会復帰を果たしました。「本当に闇を知った者でなければ、光のありがたさはわからない」ということを実感した瞬間でした。

人が闇の中に置かれているのは現実です。しかし、その心の闇を照らす偉大な光があるのも現実です。クリスマスとは、人の闇を照らす「偉大な光」が昇った日です。