愛と神の訳語

 聖書が日本語に訳されるとき、アガペーやテオス(GOD)に対応する概念の言葉がなく、苦労したようです。

アガペーは愛と定まりましたが、仏教では「愛」は官能的愛欲を意味し、「愛してはならない」と教えられていました。ですから聖書の「互いに愛し合いなさい」は、仏教ではとんでもないことであり、そのように説く伝道者は笑われたそうです。しかし、当時の日本人クリスチャンたちの聖い生き方が「愛」という言葉を聖化し、一般にも大切な言葉として扱われるようになりました。

 一方、テオスは最初、フランシスコ・ザビエルによって「大日」と訳されました。しかし、「大日如来」は(毘盧遮那・奈良の大仏)、密教の宇宙の根源とされている仏です。ザビエルは、天主(デウス)に変更しました。1837年の「ギュツラフ訳約翰(ヨハネ)福音之伝」では、1章1節「ハジマリニ カシコイモノゴザル コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル」とあるように、「極楽」と訳されています。

テオスの訳語として「神」を最初に使い出したのは、明治学院の創立者ヘボンだそうです。といっても、委員会で議論紛糾し、票決した結果、1票差で決まりました。ちなみに、中国語では「神」は物の怪のような悪霊を指しています。それゆえ中国語聖書は「上帝」と訳されています。

ヘボン以降、キリスト教会は「神」を使い始めました。日本の多神教の神、偶像の神と混同されるところですが、聖書が一般に用いられるようになると、本来の「神」の意味が高められていきました。つまり、日本語の神の方が聖書の影響を受けて、意味を変えられてしまったのです。神道の神という語は、キリスト教に軒下を貸して母屋を取られてしまった格好になっています(ある神道信者がそう評価していました)。

 長年のクリスチャンの生き方が日本語の意味さえ変えきたことは、教会自身、もっと評価していいのではないでしょうか。