私は若い頃、人と同じことをするのが嫌で、ことさらに反対のことをしていました。丹波の山の学校なのにわざと標準語でしゃべり(ったつもり)、修学旅行・学園祭などの集団行動には極力参加しませんでした。そうして「変わっている(嫌な人)」と言われることに密かな誇りを感じていました。長じてからも、人とは違う考え方、感じ方を際立たせ、人とは異なる自分独自の生き方をしたいと思っていました。
ところが、クリスチャンになってからは、他人と異なっていることよりも、人と共有できるものがあることに喜びを感じるようになりました。
私たちは違いを出そうと思わなくても、もともと生まれも性格も身体的特徴も能力も感じ方も異なっています。現代はことさらに個性の違いを強調する時代ですが、そういう風潮だからこそ、むしろ共有しているものを際立たせ、共通性を喜ぶべきだと思うのです。
教会は、キリストを共有する人々の集まりです。キリストを信じることによって、同じ世界、同じ価値、同じ空間と時間を共有する喜びの場です。父なる神の愛のもとに、キリストをかしらとして集められた家族です。「大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだ」(ロマ12・5)です。私たち教会はキリストにつながっていること以外、何の共通点もありません。しかし、キリストがすべてです。そして世界中に何億という人々が、このキリストを共有しているのです。
まだキリストを信じていない人も、キリストに呼び集められています。違いに誇りを持つ必要も引け目を感じる必要もありません。教会は、人がさまざまな違いを超えてキリストに似た者に次第に変えられて、キリストの性質が現われていくところです。私たちの個性の違いは、キリストという共通性を土台として初めて豊かに用いられます。共通性のない個性の違いというのは、ただのバラバラです。
(2005-3-13)