コーネル大学エフレイム・ラッカーは、「なぜ細胞は癌化するのか」を研究し、一つの仮説を立てていた。その仮説が実験で証明されれば、ノーベル賞級の発見になる。
1980年、ラッカーの研究室に24歳の天才的大学院生マーク・スペクターが入ってきた。彼は超人的な集中力を継続させ、次々とラッカーの仮説を証明するような実験結果を出して、ラッカーを歓喜させた。研究者たちは、成果を出せないと解雇という厳しい現実が待っている。スペクターは、他の研究者たちの妬みの的となった。
そんな中、研究漬けの生活で、スペクターの心は蝕まれていった。彼はラッカーの期待に応えようとするあまり、データを天才的に捏造してしまったのだ。
実は、彼の研究は真実に肉薄していた。捏造なんかしなくても、もう一歩まで来ていた。もし彼が正直だったら、生化学史上の天才として名が刻まれたはずだった。が、その栄誉を捏造で得ようとしてしまった。捏造は捏造である。ついに発覚する日が来て、研究室は大混乱、マスコミも騒いだ。科学界に大きな傷跡を残すことになった。(福岡伸一著「世界は分けてもわからない」講談社参照)。
人間は見たいものを見ようとする。見つからなければ捏造する。逆に、見たくないものは、存在していても見ようとはしない。人間にはそんな誘惑が常にある。したいことは、正しくないことでも、いろんな理由を捏造して、する。したくないことは、正しいことでも、もっともらしい言い訳を作り出して、しない。私たちも、心の中に捏造への誘惑を秘めてはいないだろうか。
人生のゴールを「神の栄光」と「真実」に置いていれば、何かを捏造しようとは考えない。何かを捏造するのは、栄誉、人の評価、お金、地位など、「神の栄光」以外の何かをゴールにしているからだ。スペクターは栄誉をゴールにした。私たちは「神の栄光」を目指し、「真実」であるという自負を持ちたい。