言い訳しない

「言い訳」というのは、無意識のうちにしてしまうものだ。アダムが「善悪を知る木」から取って食べたことを「言い訳(責任転嫁)」して以来、それは人類に受け継がれた習い性になってしまった。「言い訳」は、傍からみるとなんとも見苦しい。と、分かっていても、してしまうのが「言い訳」である。

本当のプロは、絶対に言い訳しないという。確かに、プロ・スポーツの選手が公の場で言い訳をするのはあまり聞かない。

ところが、今年は見苦しい場面にたびたび出くわした。ある野球の試合で、敗れたチームの監督が「きょうは投手を温存したことでこんな結果になった。準決勝での対戦相手を考え、最初から負けるための手抜きの試合をした」とメディアに語っていた。また、優勝を逃したスケート選手は、自国のメディアに、「風邪を引いて熱があった。実力を出せなかった」とコメントしていた・・などなど。

敗れて言い訳するのは、実に醜いものだ。スポーツ精神とは、どんな場合でも、その条件下で全力を出し尽くして戦うことだろう。でなければ、相手チームや、お金を払って会場まで足を運び観戦したファン、テレビ中継のスポンサーに対し、はなはだ失礼である。

負けたとしても、全力を尽くしたという姿勢で競技場を去るべきである。できれば勝者を称えたい。それが礼儀であり、潔い。足を引きずりながら、退出してはならない。負け惜しみを言ってはならない。競技では、誰かが負けるのだから、全力を尽くして負けるべきである。そういう姿勢を貫かなければ、技も心も磨かれない。

私たちも人生の競技場を走っている。クリスチャンとして、生き方のプロとなろう。パウロの使徒として生き方は、「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬ」(ロマ14・8)であった。主の前でも、人に対しても、「言い訳をしない」と心に決めただけで、生活はかなり変わるはずだ。

091101