希望を語る時か091115

日本人は学校で、「島国日本は国土が狭い上に、山国で平野が少なく、しかも資源に乏しい国だ」と習う。それゆえ、「最も頼りとすべき資源は人間である。日本人は勤勉に学び、一生懸命働かなければ、豊かになれない」とも、教えられたはずだ(半島の韓国もそうだろう)。そうして、日本人は勤勉な民族になり、20世紀末には日本としては空前の経済的繁栄を謳歌した。石油など出なくてよかったのだ。

 だが、それも今となっては昔の話である。国は世界でも最大の借金を抱え、国民は6〜7人に一人が貧困者になった。かつては、道徳心の高い国民として知られ、夜道も安心して歩けることを誇っていたのに、今は犯罪天国となった。万引き被害は東京都だけで年間700億円近く、詐欺、麻薬、殺人事件が頻発する。社会不安は深刻化する一方だ。

 なぜこうなったのか。それは言うまでもなく、日本を支えてきた豊富な資源である日本人そのものの質の低下である。豊かさに慣れて勤勉さを失った。道徳心も希望も失った。思いやりの心も忍耐力も失った。大切なものを失っているのに、いろんな理屈をつけて自己正当化する。

こうした退廃ぶりは、BC587年のエルサレム陥落・バビロン捕囚前夜のユダヤ人社会を彷彿とさせる。我々キリスト教会の警告の声は、預言者エレミヤほどにさえ、国民の心に届かない。エレミヤの時代と同じく、今は悔い改めの時である。偽預言者のように、民衆に喜ばれる安易な希望を語る時ではないだろう。愛はタフである。甘やかしではない。イザヤと同じく、人々が聞かなくても、機会を見つけて語り続けなければならない。悔い改めなしの希望はない。自己中心的な、怠惰で、貪欲で、快楽的な生活は、滅びに至る、と。

 しかし、人の頑な心は、言葉で語っても頑として変わらないものだ。「愚か者を臼に入れ、杵でこれを麦といっしょについても、その愚かさは彼から離れない」(箴言 27・22)。バビロン捕囚の時と同じく、「切り倒される」という痛みを通らなければ、目は覚めないのだろうか。その前に、聖霊の介入による覚醒、悔い改めが起こることを待望し、今日も祈ろう。