絶対音感

 お父さんが大きなおならをすると、小学生の息子が「今のはドの音だったよ。ほらっ」と言ってピアノの鍵盤のドを叩いて見せた・・・という話を聞いて笑ってしまいしました。

 絶対音のわかる人たちがいます。電話が呼ぶ音、救急車のサイレン、靴音・・・すべて和音に表すことができる人たちです。最相葉月という人は、周囲でドの音がすれば、頭の中に自動的にドという言葉が聞こえてきます。BGMも全部ドレミの音名で聞こえてきて、うるさくてしかたがないそうです。それが気になり始めると、もう頭を別のことに使うことができません(『絶対音感』小学館)。耳が研ぎ澄まされると、ここまでになってしまうのですね。

 聖霊の声にもそのようにクリアに聞こえ、御言葉だけが耳について、もう他のことは考えられないというようになればいいなと思います。聖書時代の預言者にかぎらず、主に用いられたクリスチャンの中にはそういう人たちがいましたし、今もいます。しかし、けっして彼らは特別な人たちではないと思います。キリストを信じる者ならば、神はその人の人間として習得の能力とは関係なく、聖霊を与えてくださっています。誰でも主の声に耳が研ぎ澄まされるようになれるのです。それこそが恵みです。

 外国に旅しているとき、突然日本語が耳に飛び込んで来ると無意識にそちらを向いてしまいます。外国語は単なる物音にしか聞こえませんが、日本語は一語一語わかるので気になるのです。母国語は、子供であれ誰であれ、自然に身にきます。その言葉だけに浸された生活をしているからです。クリスチャンも、聖書によって神の言葉に日々触れ、祈りによって神と交わり、神の言葉を思い巡らせているなら、自然と聖霊の声に耳が澄まされていくでしょう。誘惑の声、空しい言葉が飛び交う社会にあって、神の声だけに敏感に反応する心が育ちます。神の言葉と祈りに馴染む生活をしましょう。

(2004-8-8)