抜けめない

「大阪市西成区で開かれた賭博場で、主婦らが常習サイコロ賭博容疑で大阪府警に現行犯逮捕されるケースが相次いでいる」というニュースがありました。最近、賭博場に通う主婦ら女性客が急増しているのだそうです。なぜか。摘発された“普通のおばちゃん”たちは、「若い暴力団組員の礼儀正しい姿を見ていると気分が良かった。飲食サービスもあり、ついつい通った」と供述しているとのことです。
まことに「この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜け目がない」(ルカ16・8)と、キリストが言われるとおりだ思いました。今の社会には、“普通のおばちゃん”たちが「見ていると気分が良かった」と思えるような「礼儀正しい姿」が見られなくなっているのです。そこを抜け目なく暴力団はついたわけです。もし、ちまたに「礼儀正しい姿」がありふれていたら、彼らの礼儀正しさが光り輝いては見えるようなことはなかったでしょう。
この世にはびこるいかがわしい新興宗教やキリスト教の異端グループも、真理から的をはずしているものの、この世の人々が渇望している何かをうまく提供して心を捉えています。それは教会が忘れてしまったものかもしれません。「光の子」が「光の子」らしく振舞っているなら、異端の教えが輝いて見えることはないだろうと思います。

キリストは「この世の子らの抜け目なさ」をほめた上で、「光の子ら」も「永遠の命」を獲得しそれを味わい伝えるために、「この世の子ら」以上に狡猾さを発揮せよと教えておられます。「光の子らよ。あなたがたは主の愛と恵みの支配の中にあるのだから、恐れることなくもっと貪欲に主の祝福を求め、もっと抜け目なく人を救いに導き、ちゃっかり天に宝を積め」と。暴力団が悪において狡猾に振舞う以上に、クリスチャンが信仰において抜け目なくやれば、何が起こるでしょう。

(2004-7-11)