キリストの体(エペソ1・22、23)?

「また、神は一切のものをキリスト足の下に従わせ、一切のものの上に立つ頭であるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、一切のものを一切のものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1・22、23)?

キリストは「主の主、王の王」です。一切のものがキリストの足の下にあります。なのに世界のどの国もキリストを王とはしていませんし、誰もキリストの権威を認めてはいません。しかし、キリストはこの世の権力に打ち勝ち、その支配は目に見えなくても確立しています。ただ教会だけがそれを信仰の目で認め、キリストを王として戴いているのです。やがて時が満ちればすべてのものがキリストの下に集められ、キリストが王であることがはっきりする日が来ます(10節)。

教会はキリストの体であり、天にあるすべての霊的祝福で満たす方キリストが満ちておられるところです。本来、教会には足りないということはありません。教会こそ、神の恵みと愛があふれるところであり、癒しと慰めの場であり、神の力が表わされる場なのです。

キリストが一切のものの上に立つ頭であり、教会がキリストの体であるなら、この世の中心は国家でも家庭でもなく、教会だといえます。家庭は神が最初に定められた単位として確かに大切です。しかし、教会という「神の家族」は霊的には家庭よりも上にあるのです。キリストが愛しておられるのは教会であり、再臨されるのも教会のためです。まずこの教会という「神の家族」の交わりがあって、次に家庭も祝福されるという順番なのです。本来教会と家庭とは対立するものではありません。クリスチャンホームの場合、教会を大切にしたために家庭が犠牲になったというようなことはあってはならないのです。

もし教会が単なる社交や趣味や利害関係の集まりであるなら、教会と家庭が対立して不思議ではありません。しかし、教会は人間の組織である前に、キリストを頭とするキリストの体です。個人にとっても家庭にとっても祝福の源です。信徒の家庭はその教会の内側にあるのです。教会と家庭を対立させて考えること自体がおかしいのです。

家庭生活が祝福されて教会生活が祝福されるのではありません。逆です。教会で祝福されて、家庭(個人)生活が祝福されるのです。どちらかを犠牲にするという発想は捨てるべきです。しかし、敢えて言うなら、家庭があなたを捨てることはありえても、教会があなたを捨て去ることはありえません。キリストがあなたを見捨てることはないからです。それが神の家族なのです。

(2004-4-26)