誰に依存する(エペソ1・20,21)?

「神はその全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中から蘇らせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また今の世ばかりでなく、次に来る世においても唱えられるすべての名の上に高く置かれました。」(エペソ1・20、21)?

  父なる神は、子なるキリストを復活させ、すべての権威・権力の上に立つ圧倒的な権威者とし、未来においても最高の地位に置かれました。聖霊もそのことをあかしなさいます。それゆえ、私たちはキリストを絶対的に信頼するのです。

ところで、信仰には力があるといいますが、厳密には正しくはありません。力があるのは信仰自体ではなくて、キリストです。これを混同してはなりません。私たちはどんなに信仰が強くても、その信仰の強さでいつでも奇跡を起し、人を変え、問題を解決できるわけではないのです。

  とにかく信じ込みさえすれば何でもできると思い込むのは、キリストの力への信頼ではなく、自分の信仰の力への信頼です。より熱情的に祈り、より激しく賛美しなければ、奇跡は起らないと思い始めると、キリスト自身よりも自分の熱心さに依存することになります。もちろん熱心に祈ることが悪いわけではなく、むしろ熱心に祈ることをキリストは勧めておられます。しかし、熱心さが奇跡を起すのではないことを忘れてはなりません。ひとつ間違うと「心頭滅却すれば火もまた涼し」といった単なる精神主義や、「鰯の頭も信心から」といった迷信と変わらくなってしまいます。そうなると、キリストを誇るより、自分の熱心さを誇るようになります。

信仰とは、神の子キリストにすべて権威があることを認め、そのキリストにすべてを委ね信頼することです。また、「人にはできない。しかしキリストにはできる」ことの実体験です。信仰とは、まったく疑いがない心理状態を熱心さや激しさや言葉の繰り返しで作り上げていくことではありません。少しでも疑いや不安が生じたらもうだめだというようなものではありません。自分の心を信じるのではなく、キリストの心を信じるのです。私の心は揺らぐことはあっても、キリストの圧倒的な権威と愛はまったく揺らぐものではないと知り、諦めず信頼していくこと、それが信仰です。

(2004-4-19)