自己実現で満足か

  最近の朝日新聞のコラムに、アメリカの心理学者マズローの「人間の欲求で最も高度なものは『自己実現』」という説が紹介されていました。彼は、?食欲などの生理的満足?安全と安定?所属と愛情?自尊と承認?自己実現の5段階に分け、?が満たされると?、次に?というように順に上がっていくというのです。確かに自己実現は、進化論を信じる立場であれば最高の欲求ということになるのでしょう。

では、人々はどのようにして自己実現できるのでしょうか。コラムによれば、現代はコンピュータやその他の機器や道具、あるいは海外留学など、いろんな自己実現の手段があるといいます。そして小説、スポーツ、映画制作、絵画、音楽、写真、語学、学術・・・などでお金が稼げるようになり生活していけること、それが自己実現ということでした。その根底にある欲求は「他人に認められる」ということです。

しかし、私がキリストを求めたのは、そんな自己実現に空しさを感じたからでした。自己実現が最高な欲求だなんて、マズローはずいぶん人間を見くびったものだと思います。自分を実現しても、他人に認められても、なお満たされないものが人間にはあります。自分の人生にちっぽけな自分が実現しても、それで満たされてしまうほど人間の心は小さくありません。事実、人間の心には「永遠への思い」(伝道者3・11)が植え付けられていて、それは不完全で制限のある自己をどのように実現したって絶対に満たされないものなのです。

では聖書が教える最も高度な欲求とは何か。それはいうまでもなく「キリスト実現」「神の栄光実現」です。パウロは自分の独創的な思想を語ろうとしたのではなく、ただ生涯をかけてキリストを語りキリストを伝えようとしただけでした。それが彼の最大の喜びになっています。クリスチャンは自分の独創性や個性を現わすためではなく、自分のうちにキリストが実現することを目指して生きているのです。

イエスは盲人に対し、「(生まれつき盲人なのは)神のわざがこの人に現れるためです」と言われました。私たちが神から受けた能力や長所は神のわざが現れるためであり、それ以上に欠点や弱さを受けたのは、やはり神のわざが現れるためです。「キリストの栄光教会」の目的は、私たちの強さ弱さを通して、主の栄光が現されることです。

(2004-4-5)