N姉の召天はあまりにも突然で、悲しみもなおさら深く感じられました。亡骸を火葬で送った夕刻、ひとり教会に戻ると、郵便受けにN姉の所属教会の教会籍原簿が届いていました。4月の転入会式を楽しみにしておられたことを思い、目頭が熱くなりました。
人間は、人生の意味や価値や生き方を前もって教えられることなく、ましてや望んだわけでもないのに、突然この世界に生まれてきます。どこから来てどこへ行くのかも知りません。そして死にたくもないのに、突然地上から消え去って行かなければなりません。そのとき、私たちが地上に蓄えたものも成し遂げたこともすべて無になってしまいます。私たちを覚えている人もやがていなくなり、何百億という人間の中に埋没してしまいます。これが人間存在の現実です。
しかし、聖書は、「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある」(伝道者3・2)と教えます。人間には突然のように思えることも、すべて愛なる主の御手にあるのです。創造主を知らなければ、生まれることと死ぬことの突然さは受け止められないのではないかと思います。
「一日一日を大切に生きる」とよく言われます。しかしそれは、どこから来てどこへ行くのか、人生で真に価値のあるものは何か、を知っていてはじめて意味のあることです。創造主を知らなければ、「一日一日を大切に生きる」ことも意味がありません。大阪に行くのに仙台に向かう新幹線に乗って、一分一秒を大切にしても、のぞみはありません。途中で早く乗り換えて方向転換をしなければなりません。同様に、地獄への道に歩んでいるなら、一日一日を大切に生きても無意味であり、すぐに方向転換をして天国方向に向うべきです。
N姉は58歳でその方向転換をされました。創造主、救い主を知ったその後の8年間の一日一日は、意味のある日々であったと思います。確かに、ガンを病まれ、たびたび手術され、その後遺症に苦しみ、また大きな重荷を背負っての人生でしたが、それと闘う勇気と平安を、キリストと兄弟姉妹との交わりに得ておられました。66歳での死は、そうした苦しみや重荷からの解放でもあったのだと、私は考えます。