崩壊前夜の平和・下

「平和を実現する(つくる)人々は、幸いである(下)」(マタイ5・9)

口先だけの平和・反戦運動で、平和がつくられることはありません。それは聖書も人類の歴史も証明してきたことです。人類の歴史は、罪という得体の知れぬ大きな力のうねりに動かされてきました。人々が群れになって平和を叫び、戦争の悲惨さを訴えても、地球上のどこかで毎年のように戦いや破滅は繰り返されてきたのです。

「幸いな人」とは、平和を愛し、叫ぶ人ことではありません。犠牲を払って忍耐強く現実に「平和をつくり上げていく人」のことです。キリストは「平和をつくる者は幸いです」と語られましたが、その前に「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と叫ばれました。「天の御国」は完全な平和の国です。その国に入るためには悔い改めが必要だとキリストは言われるのです。では、何を悔い改めるのでしょうか。

戦争や破滅の原因は、人間の心に巣食う罪です。具体的には、貪欲であり、傲慢であり、人を憎み赦さない心です。その罪を悔い改めなさい、心の顔を神に向け正しなさい、とキリストは叫ばれたのです。真実に悔い改めがなされば、平和を叫ばなくても、戦いは止みます。しかし、この罪を悔い改めない限り、国民全員が平和を叫んでも戦争や破滅の悲劇は人類を襲うでしょう。
聖書によれば、ある国の民が罪を悔い改め、来るべき滅びをまぬかれたことが、歴史上ただ一度だけありました。それは二千数百年前のアッシリアです。預言者ヨナから滅びの警告を受けたアッシリアの首都ニネベの民12万人全員が、王から一般庶民にいたるまで断食をもって神の前に悔い改めたのです。ニネベは破滅から救われました。

このような悔い改めの奇跡がない限り、戦争は絶えず、環境破壊も進み、やがて人類は破滅を迎えるでしょう。

確かに、国民全員が一度に悔い改めることは難しいかもしれませんが、「私」という一個人が悔い改めることはできます。そのとき、「私」の心に平和がつくられます。そして「平和をつくる者は幸いです」というキリストの言葉が実現します。家族の平和も、社会の平和も、世界の平和も、まず、自分の心の平和からしか始まらないことを、キリストは教えているのです。