ルカ10章に、マルタとマリヤが自宅にキリストをお迎えにする場面があります。マリヤは「御言葉に聞き入る」ことを選び、マルタは客たちの接待をしますが、気が落ち着かず、「マリヤに私を手伝うように言ってください」とキリストに訴えます。しかし、主は「どうしても必要なことは・・・一つです。マリヤはその良い方を選んだのです」と、彼女をたしなめられました。二人とも主に喜ばれることをなそうとしたのですが、奉仕よりも御言葉を聞くことが優れていることを主は教えられたわけです。
ところで、そのとき彼女らの弟(兄)であり、死からよみがえったあのラザロは、何をしていたのでしょうか。ヨハネの12章に、イエスがベタニヤに来られ、人々が晩餐を用意し、マルタは給仕をしている場面があります。ここではラザロが登場しています。実に、彼は人々と一緒に食卓についていました。何もせず座って食べていたのです。しかし、それだけで彼は「キリストの証し人」になっていました。しかも、最大の証し人です。なぜなら、「祭司長たちは(イエスだけでなく)ラザロも殺そうと相談した。それは彼のために多くのユダヤ人が・・・イエスを信じるようになったから」(10、11節)です。祭司長たちは、キリストをこよなく愛したマルタやマリヤを殺そうとはしていません。キリストの大いなるわざがなされたラザロの命を狙ったのです。
ラザロがそこに存在しているだけで、キリストの栄光が表されていました。キリストの恵みが施された自分、キリストに生かされている自分、そんなありのままの自分を見せるだけで、信仰の力が鮮やかに表されているのです。マルタは忙しく給仕し、マリヤは聞き入っていました。しかし、ラザロは何もしてはいません。ただ一度死んだだけです。
その人が何かをなしたわけではないし、欠点もあれば弱さもあるし、ときには面倒もかける。しかし、その人がそこに存在しているだけで、神の愛、偉大さ、平安を感じさせる。そんな人もいるのです。
病気や老齢で動けなくなっても、そのようにして信仰者を用いていただけるなら、それこそ信仰の力の極みだと思います。