私たちは人間として生まれてきたからには、人間として生きる覚悟が必要です。人間は永遠を求めるように造られています(伝道者3・11)。永遠なるものと出会わなければ決して心が満たされることはありません。生涯にわたって永遠を求めて続けること、これが人間としての覚悟です。
人間は不完全です。不完全な生き物として生きる覚悟も必要です。それは赦す覚悟、赦される覚悟です。赦し赦されなければ生きてはいけません。
自分という人間に生まれた覚悟も必要です。この親に生まれ、この環境に育ち、この体と能力で生きていく覚悟であり、自分に与えられた賜物を用いていく覚悟です。
人間は自由です。自由にも覚悟が必要です。自由を行使すれば必ず責任が生じます。その責任をとる覚悟です。
この時代に日本でクリスチャンとして生きていく覚悟。結婚したならそれなりの覚悟。親となったらその覚悟。一人で生きるならその覚悟。耐える覚悟、愛する覚悟。ペットを飼うにも覚悟。自分の責任ではないのに自分に降りかかったことを引き受けていく覚悟。時には失う覚悟も必要です。より良いものを受けるために。
そして最後は、この地上を去る日の覚悟です。
こうした覚悟は私たちに平安を与えます。覚悟を決められるか決められないかが、いざという時の行動を左右します。ペテロやパウロにはキリストに選ばれ、使徒として立たされた覚悟がありました。大変な務めですが平安がありました。危機に瀕しても覚悟のゆえの平安がありました。その覚悟が彼らの道を開きました。
もちろん、決めがたい覚悟もあるでしょう。イエス様も十字架を前にしてゲッセマネの園で苦しみもだえられました。しかし、祈り通して父なる神に委ね、腹を決められました。私たちにはそのキリストがおられます。キリストは決して私をお見捨てにならないという約束が、私たちの覚悟を助けます。また、復活の希望なしにどうして死ぬ覚悟ができるでしょう。覚悟は希望があるからできるのです。どのような局面に立たされても、心が騒いでも、祈りが覚悟へと導きます。祈れないなら、ゲッセマネのキリストを思うことから始めてください。覚悟とは主への信頼です。