「何事でも自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい」(マタイ7・12)
ある日、教会学校の教師キンボールは、靴屋で職工として働く少年をキリストに導こうと、その店の前までやってきました。しかし、中に入って仕事中の彼に声をかけるのは迷惑ではないかと心にためらいが生じ、一旦、通り過ぎてしまいます。すると、店の裏でその少年が靴の修繕をしているではありませんか。彼は少年に近づき、肩に手を置いて祈りました。それは、弱々しく止めどもなく、ただ単にキリストの愛に立ち返ることを願うだけの祈りでした。後年、二人ともその内容はよく覚えていないといいます。ところが、この祈りが少年の生活を一変させてしまったのです。
翌朝、少年は外に出ると、太陽の輝きがいつもと違うことに気がつきました。まるで太陽が自分に向かって微笑んでいるかのようでした。ボストン郊外の森でさえずる小鳥たちも、自分のために歌ってくれているかのように思われました。少年は自然に存在するものと恋愛関係に陥ったかのように感じました。もはや誰に対しても憎いという気持ちがなくなり、すべての人に対して愛情を感じるようになったのです。
これがアメリカの大伝道者ムーディの回心です。彼は言います。「神の愛が注がれなかったならば、人の心は決して満たされない。回心した人が感じる衝動はただ愛である。他人を批判したり、欠点を暴いたりする人の回心というのは偽物である。」「回心する以前、私は十字架に向かって働いていた。しかし、回心後は十字架にある愛と喜びから働いてきた。回心前は救われるために努力してきた。回心後は救われたから努力してきた。」
今日の宣教メッセージは黄金律です。自覚していようがいまいが、人が本当に「自分にしてもらいたい」と願っていることは、「神の愛が注がれる」ことだと思います。統計によれば、サラリーマンの80%以上が、天変地異が起こることを望んでいるのだそうです。実は、天変地異ではなく、自分の人生が一変するようなことを望んでいるのだと思います。誰もが内側から変えられてしまうような愛の驚きを体験したいのです。キンボールから神の愛を注がれた靴屋の少年がまさにそうでした。