教会の基礎体力

先週の主日は、都内の伝統ある教会に行きました。以前に馴染みがあった教会です。着任したばかりの牧師とも昔接触があり、懐かしい思いで出席しました。ところが、牧師は海外宣教中で、メッセージは執事の担当でした。一瞬がっかりしましたが、それでも「兄姉たちと主を礼拝するために来たのだ。主の声にへりくだって耳を傾けよう」と思い直し、襟を正す思いで礼拝に臨みました。講壇の後ろには40人ほどの聖歌隊席があり、賛美は高らかで、祈り、交読、派遣式、聖書朗読が厳粛に行われていきます。

そして、宣教メッセージ。意外にも、講壇に立ったのは30歳ぐらいの女性でした。200人の礼拝です。壮年も長年の信仰者も数多い教会です。それでもこの若い女性から主の言葉を聴こうとする会衆の姿勢、そして、要請を受けてしり込みせずに講壇に立った女性の信仰に、教会の懐の深さを感じました。

彼女は趣味の登山の体験や職場でのトラブル解決を表現力豊かに語り、信仰生活に結びつけていきます。気の利いたことを語ってやろうという気負いはなく、自分の立場をわきまえ、しかし御言葉を権威に立てて語るべきことは語るという姿勢に感動を覚えました。彼女は母の胎にいるころからこの教会に通い、今日までこの教会で育ってきたそうです。教会がこういう信徒説教者を育て上げたのですね。そんな彼女が、牧師不在の礼拝で、最後に、教会の一致を切々と訴えました。会衆は心動かされただろうと思います。

この教会には信徒説教者20人いるとのことでした。キリストの体として基礎体力を蓄え、牧師が替わっても揺るがない土台造りを目指しているのです。ふつう、説教を語り、聖書を教え、地域集会を指導し、信徒訓練することは牧師だけの働きであって、信徒の務めではないと考えます。しかし私は、この働きから来る祝福と喜びを、牧師が独占すべきではないと考えます。GCCではそうした信徒リーダーを育てていくことが、牧師の大きな務めです。皆さんの中から、その志を持つ人がさらに現れて欲しいと願っています。