木谷恭介の『死にたい老人』という本があります。
「もう充分に生きた。あとは静かに死にたい。83歳の著者は老いて欲望が失せ、生きる楽しみが消えた時、絶食して緩やかに安楽死する決意をした。40日も食べなければ死ねると安易に始めたが、持病の鬱血性心不全の薬は飲み続けながらの絶食だったため、胃潰瘍になり、さらに異常な頭痛や口の渇きも加わって激痛に苦しむようになる。そして最後は強烈な死への恐怖に襲われ、絶食安楽死を断念する。三回計52日間試みて失敗した、異常な記録である」。つまり『死にたい老人』ではなく、『死ねなかった老人』のお話です。
私はその本の筋書きを読んで、思わず笑ってしまいました。「老いて欲望が失せ、生きる楽しみが消えた」はずの老人が、こんな体験談を書いて出版しているのだから、最初から矛盾しているのです(しかも、けっこう売れているようです)。生きる楽しみが消えても、生きる使命はこの地上に残っているということです。また、人間、生きる空しさよりも、死に伴う苦痛のほうが耐えられないことを物語っている話でもあります。それも何だか愉快です。
「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある」(伝道者3・1、2)。生が私を選んでこの世にあらしめたように、私が死の時を選ぶのではなく、死が私の時を選ぶ(正確には、主が私の死の時を定めている)のです。生と死は私の自由にはできず、またしようと考えてもならないのです。
私個人の意見としては、医療技術によって、単なる生命反応がある状態を無理に維持することは望みません。つまり、生命維持装置は拒否するということです。私の生を始めてくださった創造主が、私の終わりの時を用意してくださっています。その限りは、自分では楽しみがなく空しいと思っても、主のために生きるのです。