「日本軍がフィリピンで女性や子供を含め多くの国民を虐殺したことは、国民の心に大きな傷跡として残るだろう」。日本への憎悪、それが太平洋戦争終戦直後のフィリピン国民の感情でした。戦争末期のマニラ市街戦で、日本軍によって10万人のフィリピン市民が殺されたといいます。
1948年8月、フィリピン政府は日本兵のBC級戦犯裁判を行い、137人に有罪判決を下します。うち79人は死刑でした。同年、キリノ大統領はまず2人を処刑します。死刑執行の権限は大統領にあります。キリノ大統領自身、妻と3人の子どもと親族5人を日本兵によって無慈悲に殺されていたのです。
しかし、死刑執行命令を下したのち、カトリック信者であった大統領の良心に葛藤が生じました。「赦しなさい。赦さないなら、あなたがたの父もあなた方の罪を赦されない」。このキリストのことばが心に迫ったのだろうと思います。それから2年あまり処刑は行われませんでした。しかし、国民感情がそれを許さなかったのか、1951年1月、大統領は14人の死刑執行にサインします。同時に、大統領は日本に対して謝罪と賠償の要求もしました。
しかし、大統領は「憎しみと赦し」の狭間でさらに苦しむことになりました。体は癌にむしばまれていきます。その格闘の末、ついに恩赦を出すことを決心するのです。大赦(全面無罪)は議会を通りません。大統領権限で出せるのは減刑の特赦でした。1953年、キリノ大統領は、日本からの賠償なしに、そして妻の親族の反対と国民感情を押し切って、特赦を出して、56名の死刑囚は終身刑に、残りは釈放し、日本に送還したのです。さらに、大統領任期が切れる二日前になって、もう一度特赦を出して、巣鴨プリズンに収容されていた終身刑の囚人も釈放しました。
「フィリピンと日本は近い。いつか日本と友になる日が来る。」「赦さなければ、我々は前には進めない」。それが大統領の決意の言葉でした。
赦さなければ、いつまでも過去に縛られたままになるのです。