神の国の文化「愛」(3) 「愛を語る資格」

神の国の文化の土台は愛です。しかし、「愛せよ」が第一のメッセージではありません。「神に愛されていることを知れ、その愛を受け入れよ」です。神の愛、キリストの恵みを知って、その愛に安らいでいること、それが神の国です。
「あなたに愛を語る資格はありますか」。はい、あります。「あなたは愛の人ですか」。いいえ。「愛の人」はキリストだけです。「敵を愛し、自分を憎む者に善を行い、呪う者を祝福し、侮辱する者のために祈る」(ルカ6:27)のが「愛の人」です。キリストはその愛を十字架で示されました。クリスチャンが愛を語る資格があるのは、そのキリストの愛を知ったからです。それを受け入れたからです。
聖書の中のノア、アブラハム、ヨセフ、モーセ、ダビデ、ペテロ・・は「愛の人」というより「神に愛された人」です。パウロも、「私ほどキリストに愛された者はない」と言うことでしょう。この13章で、彼は自分の愛を語っているのではありません。キリストの愛を語っているのです。十字架の愛を知らなければ、知識も能力も、律法の行いも地位もすべて虚しいのです。永遠のいのちを与えてくれるのは、キリストの愛だけだからです。
父なる神の愛は、独り子を犠牲にするという愚かな愛です。キリストの愛は、敵を救うためにいのちを投げ出すという常識外れの愛です。しかし、この愚かで常識外れの愛でなければ、人を罪から救い出させないのです。この愛だけが人を造り変え、生かすのです。
この愛を知っていることを誇りにしましょう。この愛に安らぎましょう。愛されるにふさわしい人間になってから、キリストの愛に安らごうとするのは、本末転倒です。いや、むしろキリストの愛を拒絶することです。信仰で受け取ればいいのです。十字架の愛をむだにしてはなりません。十字架の愛をむだにしない人は愛を語る資格があります。自分の愛のなさを恐れる必要はありません。どのように愛され、どうなったかを伝えればいいのです。