キリストは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と言われました。私たちは、キリストに愛されたその愛で人を愛するのであって、自分の愛で愛するのではありません。キリストの愛から出た言葉や行いでなければ虚しいのです。私たちは行いに自分の愛をこめるのではなく、主の愛に促され、その愛を行いで伝えるのです。キリストの愛とは自己犠牲の愛です。弱い者への憐れみです。見捨てずに建て上げる力です。主の愛は罪人を新しい人に造り変えます。自分には愛はないという人こそ、主の愛に促されて人を愛することが可能になります。そのとき、はっきりわかります。「これは私の愛ではない。そうさせたのはキリストの愛だ」と。
では、パウロが語る愛を順にみていきましょう。
1.愛は寛容
寛容とは罪を赦すことです。寛容は赦しにおいて最大限にあらわされます。私たちは主に赦されなければ、いのちを失います。クリスチャン詩人の八木重吉(1898-1927)がこんな詩を残しています。「すべての苦しみの根源は/無条件に無制限に人を赦すという/その一念が消えうせたこと」。「すべての喜びの根源は/無条件に無制限に人を赦すという/キリストの愛で愛されていること」。赦すことが、喜びと平和を作り出すのです。
寛容とは忍耐強さです。主の忍耐がなければ、私たちはとっくに滅んでいました。弟子たちの不信仰に、「いつまで私はあなたがたにがまんしなければならないのか」と辟易しつつ、忍耐強く導かれました。主の忍耐強さが弟子を育てたのです。
寛容とは、相手の事情を思いやり、人のした悪に寛大な解釈をすることです。相手を赦す理由をこちらが考えてあげるのです。「育った環境が悪かった」「傷ついている」「疲れている」「空腹なんだ」「誤解している」といったように。
寛容を示しましょう。それがあなたの信仰を大きくします。