「みずからする」と「おのずからなる」

一組の男女から「結婚することになりました」と報告を受けたとき、「ちがうでしょ。結婚することにしたんでしょ。明確な意志なく、何となく結婚するんですか」とツッコミを入れたことがありました。
しかし、実は、私自身も「なる」と「する」を同じことのように使っています。自分の意志で決めたことなのに、無意識のうちに「今度、大阪に行くことになりました」などと表現してしまいます。おそらく「する」と「なる」は、日本人には一つなのだろうと思います。欧米人なら、意志して「みずから」主体的に「する」ことと、自然と「おのずから」「なる」ことを明確に分けて考えるのでしょうが、たいていの日本人にとっては、「みずから」と「おのずから」は、結局は同じことのようです。漢字変換すると、「自ら」と「自ずから」になってしまいます。結婚も、初めて会ってすぐに決意して「する」ことではなく、二人の間で「おのずから」なっていくことでもあります。それゆえ、「結婚することになりました」という表現でいいと思います。その「なる」に「する」も含まれているのですから。
聖書の教えの実践もそうでしょう。たとえば「愛」。「愛」は、「みずから」意志して主体的に「する」ことだけなのではなく、みことばと聖霊によって心が造り変えられて「おのずから」愛せるように「なって」いくことでもあります。平安、寛容、柔和、謙遜、自制・・もみなそうです。礼拝、祈り、聖書の学び、弟子訓練は、「みずから」の意志で始めて「する」ことです。あとは、「おのずから」「なって」いくのです。
「する」ことだけに力を入れる信仰だけでは、いつかは疲れ果てます。聖霊によって「なる」ことを期待する信仰も合わせ持ちましょう。両者は一つです。キリストの栄光教会も満12年になろうとしています。礼拝、祈り、聖書の学び、弟子訓練の積み重ねで、いつの間にかここまでに「なり」ました。主の恵みだと心から、主をほめたたえます。