サッカーや野球などの試合を球場で他のファンと一緒に応援するのと、家でひとりテレビ観戦するのとでは、かなり違います。またCDで音楽を聴くのと、コンサートやライブで聴衆の中にいるのとはまるで違います。臨場感だけではなく、球場や会場に詰めかけた多くの人たちとの一体感、連帯感で、感動が増幅するからです。人は何かを共有し、人と人とでつながっていることで喜びを感じるように造られているのだと思います。
私たちが天地の創造主に教会に呼び集められ、兄弟姉妹と一緒に礼拝するときは、それ以上の霊的一体感の高まりを体験します。会衆の賛美や祈りのほうが、聖霊の「風」の密度が高まり、主の御臨在が生々しくなります。家でひとりで祈るときよりも、会衆とともに祈るほうが、むしろ個人的なキリストとの出会いが体験できます。また、会衆の中で声を出して賛美していると、たとえ自分は音痴でも上手に歌っているように聞こえるから不思議です。
「私たち」は「私」です。「私たち」の心が一つになって主にだけ向かい、「私」が消えて主だけをほめたたえているとき、かえって主は一人ひとりに近付いてくださいます。会衆の中でこそ、主と個人的な交わりができます。
もちろんひとりで祈ることも大切です。しかし、私はひとりで祈っても「私たち」という意識で祈ります。今年は教会で一斉に夜10時の祈りをしていますが、そのときも共に祈っている兄弟姉妹と心を合わせ、「私たち」を主語にして祈っています。「私たちは主の御名をあがめ・・・私たちは主を喜び・・・私たちは主に期待し・・・私たちは主の恵みに感謝します」と。
パウロやペテロやヨハネらも書簡で、「私」という単数形より「私たち」という複数形を多用しています。共同体を意識しているからです。「大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです」(ロマ12:5)。それが個人の生かされる道です。