主は心を見る

15357537263_40db3c8eda_o今月、息子夫婦が、イスラエルから来たラビのダヴィット・ナクルトマンと、沖縄で数日行動をともにして来ました。正統派ユダヤ教徒なので、食物規定(カシュルート)を守ります。反芻をせず、蹄の分かれていない動物の肉(豚など)は食べません。しかし、食べてもいい肉(牛、鶏など)であっても、日本の肉はそもそもユダヤ教の調理法に従って処理されていないので、肉は一切食べなかったそうです。では、何を食べたか。野菜と魚です。ただしうろこない魚は食べません。貝やエビ、タコ、イカ類も食べません。そんなユダヤ人が一緒だと、厄介で面倒くさいと思われるかもしれませんが、実はそうではなかったというのです。決して律法主義ではありませんでした。
 このラビの基本は、その時その場で最大限の努力をして、主が一番喜ばれることする、ということでした。不完全な人間ですから、完全に主の教え(律法)を守ることはできません。しかし、できるだけのことは誠実に行います。「人はうわべを見るが、主は心を見る」(Iサムエル16:7b)とあるように、主は、私たちがどれだけしたかではなく、心の姿勢を評価されるのです。
こんなことがあったそうです。安息日の終わりの夕べに祈るとき、ラビ・ナクルトマンはろうそくが必要だと言いました。しかし、ろうそくもマッチもありません。そこで割り箸に、部屋のガスバーナー火をつけて、ろうそく代わりにしたそうです。すぐに消えます。それでも、その場でできる最善のことをしたことになります。それを主は良しとしてくださるのです。そんなことを、いつも喜びながら笑顔でしていたそうです。
そのようにして、安息日(主日)、日々のデボーション、祈りの時間、食事の作法などを守る生活は、何も決めないで気ままに生きる生活より、実は自由で、総合的には効率性が高いのです。ユダヤ人から学ばされることは多々あります(ただし、イエスをメシヤと信じないならば救いはありません。ユダヤ人に対する私たちの祈りの課題です)。