いただきます

学校給食では、生徒らは一斉に「いただきます」と言って食べ始めます。ところが、学校にクレームをつけた保護者がいました。「お金を払っているのに、なぜ『いただきます』と言わせるのか」と。この親(モンペ、モンスターペアレンツ)は、おそらく自分の家でも、「私が働いたお金で食べられるのだ。お前たちは『いただきます』と言いなさい。私は言う必要はない」と理屈をこねていることでしょう。でなければ一貫していません。
しかし、この親は明らかに思い違いをしています。それは、「お金ですべてのものが買える」と考えていること、そして自分はお金で学校給食に関わるすべてのことを支払えたと思い込んでいることです。モノとエネルギーと労賃に対しては支払えたかもしれません。しかし、調理人、収穫した人、運んだ人などの誠実さ、思いやり、忍耐などには支払えてはいません。それはお金には換算できません。「いただきます」「ご馳走様でした」は、その人たちの誠実さや思いやりを、お金ではとても支払えないほどに価値あるものと認めることばなのです。お店でお金を払っても、「ありがとう」と声をかけるのもそうです。
ところで、クレームを付けた親の傲慢さや想像力の欠如はどこから来ているのでしょうか。おそらく、「市場原理」の発想をする家庭や環境で育ったからでしょう。つまりすべてをお金の損得勘定で考えて価値判断をし、評価し、決定する人たちに囲まれていたのだと思います。
クリスチャンは食事の際、主に感謝の祈りをします。たとえばご飯。農家の人、運搬販売した人、炊いた人への労賃はお金で払えたとしても、お米そのものには払えません。稲を生長させたのは神様だからです。つまり、私たちはいただいているのです。「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です」(Ⅰコリ 3:6)。その恵みに感謝して祈るのです。その祈りを忘れ、経済原理の発想だけで子育てをするなら、想像力のない高慢な人間が出来上がることでしょう。感謝の祈りを大切にしましょう。