アメリカには同性愛の牧師やクリスチャン、そして同性愛者が集まる教会があります。リベラルな教団や聖公会は同性愛を承認し、この世の流れに従っています。日本もその傾向が顕著になってきました。しかし、私たちが絶対的基準として立つ聖書は、同性愛を罪に定めています。
創世記2章26節はこう語ります。「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となる」。神は人を男と女とに造られ、結婚という制度を設け、夫婦の性を祝福し、「生めよ、増えよ」という目的と使命を与えられました。言うまでもなく、同性愛は真っ向からこれに反しています。
旧約聖書は、「あなたは女と寝るように男と寝てはならない。これは忌み嫌うべきことである」(レビ18:22、20:13)と教え、新約聖書でもパウロが「男色する者・・は神の国を相続することができない」(IIコリント6:9、 Iテモテ:10)、さらに、「女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです」(ローマ1:27)と述べています。同性愛は忌むべき罪です。
しかし、現代はまさに「士師記」の時代です。「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」(21:25)という状況がそのまま当てはまります。教会もクリスチャンも、聖書を自分の思うように解釈して、自分のしたいことを正当化するようになってきています。聖書をありのまま字義通りに解釈したのでは、現代社会の実情に合わないといって、聖書を世の中に合わせようとするのです。
夫婦・家族形態のあり方の多様化と言えば聞こえはいいですが、現実には本来の性の祝福の破壊、家族の崩壊です。どんなにきれいごとを並べても、「自然の用」を捨てた人間、聖書に反する社会はやがて滅びます。私たちは、世の風潮には決して流されず、創造主が定められた基準に従います。それが祝福の道です。