新井白石

江戸時代の学者で政治家の新井白石は、イタリア人宣教師シドチを尋問したときの感想を、「二人の言を聞くに似たり」と書き残しています(『西洋紀聞』、)。白石にとって、シドチの人文科学的知識や世界情勢の認識と洞察はまさに「賢者の言葉」でしたが、彼のキリシタンの教えは「愚者の言葉」のように聞こえたのです。シドチがはるばる鎖国下の日本に来て命懸けで侵入しようとしたことは、「賢者の行為」ではなく「愚者の行為」であり、しかも彼が伝えようとしたのは、「賢者の言葉」ではなく「愚者の言葉」でした。白石には理解しがたいことだったでしょう(山本七平『「空気」の研究』参照)。そして、結局、日本人はシドチの「賢者の言葉」を取り入れ、愚かな「キリストの福音」は切り捨てました。
パウロが『コリント人への手紙I』で、「自然の人は神の霊の属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです」(2:14)と語っていますが、それは、古今東西、変わりません。
けれども、パウロはこの福音の愚かさをこそ誇りにしました。「私は福音を恥とはしない」と断言しています(ロマ1:16)。なぜなら、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力」(Iコリント1:18)だからです。
福音とは「十字架のことば」です。「十字架のことば」とは、神が罪人である私たちを愛し、罪人を永遠の滅びから救うために、独り子キリストを身代わりにして十字架につけた、という「良い知らせ」です。そして、そのキリストを信じるだけで救われるのです。実に愚かです。でもこの愚かな福音を伝えるために、パウロもシドチも命をささげました。
 福音の愚かさこそ、神の知恵です。人間の知恵は罪人を永遠の滅びから救えません。しかし、福音の愚かさは、へりくだって自分の罪を認め、キリストを信じるすべての人を救います。私たちは人間の知恵で救われたのではなく、福音の愚かさで救われたのです。