互いに論じ合うことはしない

 マルコ11:28-32にこんな場面があります。人々を教えたり病を癒したりする主イエスに、祭司長、律法学者、長老たちが妬みと脅威を感じ、「何の権威でこれらのことをしているのか」と詰問しました。主は「ヨハネのバプテスマは天から人からか。答えたら、私も答えよう」と応じられます。すると彼らは「互いに論じ合った」のです。「天から、と言えば、ではなぜヨハネを信じなかったのか反論される、人から、と言えば、ヨハネを信じている群衆が怖い」。ということで「わからない」と答えました。それで、主イエスも答えられませんでした。
祭司長らの誤りは、互いの間で論じ合って結論を出したことです。主なる神に仕えるはずのユダヤの指導者が、「主に聞く」「聖書で考える」ことをしないで、自分たちだけで相談しているのです。まるで、この問題は神さまには関係ない、いや、神さまには関与させないというような態度をとっています。そして、真理を踏みにじるのです。
主イエスはこう語られます。「聖なるものを犬に与えてはなりません。また豚の前に真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから」(マタイ7:6)。祭司長らは犬や豚と同じです。真理を語っても聞こうとしません。
クリスチャンであっても、問題にぶつかると、突然、神の国に住んでいることを忘れたかのように(神は存在しないかのように)、自分の頭の中だけで考え、早計な結論を出してしまうことがあります。突発性無神論症候群です。そのとき、祭司長らと同じ状態になっています。また、神学者や牧師たちも、聖書を論じているようでも、現実から乖離(カイリ)し、抽象的な世界に入って、自分たちだけで「互いに論じ合う」ことが多々あります。それが楽しいのです。しかし、真理は現実であり、具体的です。体験できない真理には意味がありません。
主は私たちに「犬や豚」ではなく、主と語り合う「主の羊」になることを願っておられます。