主の厳しさが救いとなる

「10月13日のプロゴルフの下部ツアー・トーナメントで、20歳の日本人ゴルファーが、スコアブックの2か所を書き直し、2打少なく申告したことが発覚した。懲戒・処分委員会では除名も検討したが、20歳の若者であり、反省が期待できるとの理由で、10年間のツアー出場停止処分を決めた」(12月6日のニュース)
反省が期待できるとはいえ、停止処分が解けたときにはもう30歳です。選手生命は絶たれたと言えましょう。追い込まれての不正だったのか、繰り返してきて発覚したのか。いずれにせよ、20歳の若者には厳しい処分のようにもみえます。
私が若いころに親しかった、クリスチャン男性から聞いた話を思い出しました。
「同じ大学だった友人が自殺し、その葬儀に参列した。優秀な人で野心家でもあった。一流会社でみるみる出世していった。部長になって間もなく、会社のお金を繰り返し横領していたことが発覚し、すべてを失った。実は、学生時代、カンニングの常習者だった。一度見つかったが、口頭注意で、処分はなかった。それで、その後も何度か繰り返したようだ。あのとき、無期停学処分ぐらいの痛みを味わっていたら、学生としては失敗したが、人生には失敗しなかったかもしれない。棺に横たわる彼の頭からは、ポマード(整髪料)の匂いが漂っていた。ポマードの匂いがするたびに、彼を痛ましく思い出す」。
使徒教会の時代、アナニヤとサッピラ夫婦は、財産を売却し、代金の一部を残しておいて、すべてを捧げたかのように見せかけました。しかし、それを見破ったペテロは、「あなたがたは聖霊を欺いた」と宣告します。二人は息が絶えました。聖書には、「これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた」(使徒 5:5)とあります。以後、使徒教会では、みな聖霊を畏れ、主を欺くような行為は途絶えたことでしょう。
主の厳しさは、私たちを真の悔い改めに導き、私たちのたましいの救いとなります。聖書は、人に寛容であるべきことを教えます。しかし、人から温情を受けても、主を畏れることを忘れてはなりません。