ニューギニアのゴチ村は長らく周囲の4氏族と略奪、襲撃を繰り返してきた。しかし、ゴチ村は危険な状態になり、住民の大半が友好的な近隣の村に避難した。そうして33年の歳月が過ぎた。住民は先祖のゴチ村に帰ることに決め、敵対していた氏族に呼びかけて、和解の儀式を催した。それは、略奪と殺戮の被害を受けたゴチ村が、相手側に豚や物品の賠償を支払う儀式であった。
それを聞いて、アメリカの人類生態学の研究者であるJ.ダイヤモンドは驚き、ゴチ村の友人ピウスに尋ねた。「彼らはあなたの父や親族を殺したのではありませんか。なのに、なぜあなたがたの方から、相手側に賠償を支払うのですか。」ピウスは答えた。「敵対していた氏族同士の間に平和をとり戻し、ゴチ村で安全に暮らすためです。」
近代国家の法廷では、争いの有責者を特定し、罪状を確定し、刑を執行する。そうして国家としての正義を守る。しかし、ニューギニアの伝統的氏族社会では、争いがあっても、当事者間の平和の回復が最優先となる。どちらが正しいかより、平和を取り戻すことが大切なのだ。もし、家族を殺された者が、殺人者の家族に復讐するなら、両者の親族を巻き込んだ争いとなり、さらに村同士の争いにまですぐに発展してしまう。それゆえ、和解のために、殺戮された村のほうが、殺戮した村に賠償を払うこともあるのだ。(J.ダイヤモンド『昨日までの世界』日経ビジネス文庫から要約)。
これは、神のなさることに似通っています。罪人を裁いて永遠の滅びに定めることが神の願いではありません。神の第一の願いは、罪人が神と和解することです。そのために、独り子キリストを与えてくださいました。神に反逆した人間に、反逆された神の方から、和解のプレゼントをくださったのです。
神が私たちに悔い改めを求められるのは、私たちが和解を受け入れて、神との平和を回復するためです。また、私たちも同じように、復讐はせず、恵みによって隣人と和解し、平和を創るためです。これが神の国です。