ポルトガルの宣教師ルイス・フロイス(1563年来日)が、「日本では人殺しは普通のことである」と書き残しています。戦国時代、領主は領民の命を平気で奪いましたが、民百姓のほうも生きるために必死で抵抗しました。そんな殺伐した状態は徳川の世(1603)になっても続いていました。それに終止符を打ったのが「島原の乱」(1637-8)であると、磯田道史氏が著書『徳川がつくった先進国日本』で述べています。
「島原の乱」には、島原半島と天草諸島の女子供を含む住民の大半である3万7千人が参加しました。数年に及ぶ飢饉にもかかわらず重い年貢を課した領主に、農民の怒りが爆発したのです。と同時に、キリシタン迫害に対する抵抗でもありました。
しかし、豊臣、徳川政権から迫害されたとき、キリシタンは「躊躇なく殉教の途を選ぶ傾向があり、本来はキリスト教と武装蜂起とはなじまない」と磯田氏は言います。実際、キリスト教では、クリスチャンが迫害者に対して武器をとって戦って死んだ場合、殉教とは認めらません(イスラムとは正反対です)。長崎26聖人をはじめ、日本各地のキリシタンは無抵抗で殉教しています。
実は、島原の乱に参加したキリシタンの多くは、「立ち返りキリシタン」でした。「立ち返りキリシタン」とは、秀吉のキリシタン弾圧に屈して一旦棄教したが、この乱に乗じて再度キリスト教に改宗した人たちのことです。島原の乱はキリシタンの宗教戦争とみなされますが、実際は、農民の大一揆という色彩の方が強かったようなのです。もちろん、乱に巻き込まれて死んだ真の信仰者も少なくなかったでしょう。
島原の乱は鎖国完成の契機となりましたが、同時に、武士政権の内政も変えました。この乱で、農民ら3万7千人だけでなく、幕府討伐軍も1万2千人が死傷したのです。島原・天草の人口は激減し、土地は荒廃します。それは、農民を殺戮すると年貢を納める者がいなくなり、武士も食えなくなるという教訓を残しました。この多大な犠牲が、支配層に「愛民思想」「生命尊重の価値観」が広がるきっかけを作ったのです。つまり、戦国時代の殺伐たる空気を一掃したのです(その延長線に綱吉の「生類憐みの令」)。