米大統領ルーズベルトに原爆開発を訴えたのは、亡命科学者シラードでした。ところが、1942年6月、シラードが恐れていたドイツは原爆製造を断念してしまいました。それでも、一旦計画されたアメリカの核開発はもう止められなくなっていたのです。
1944年冬、原子力研究所に勤務していた科学者たちは、ドイツが開発を放棄したことを知ります。彼らの中で、原爆の倫理性に疑念を持った人たちが、密かに意見交換の集会を開きました。しかし、突然現れたオッペンハイマー所長に、「原爆を開発すれば、人類はもう戦争を起こせなくなる。原爆は平和の手段として必要なのだ」と説得されてしまいます。オッペンハイマーは、自分の名誉のために、中止は論外でした。
1944年4月、シラードはドイツの降伏は間近だと知り、今度はルーズベルト大統領に原爆開発中止の訴えを起こしました。しかし、その矢先、大統領は急死してしまったのです。
その後、「原爆を実際に投下して、いかに恐ろしい兵器か、世界に見せつけるべきだ。そうして初めて戦争抑止力になる」という意見が主流となりました。大統領側近であったブッシュは、議会の承認なしで、途方もない資金と人材をつぎ込んでいましたから、開発できなければ、国家反逆の非難を受けることになります。原爆を投下し、敵国を降伏させることだけが、米国民を納得させ、自分の立場を守る唯一の道になったのです。
ところが、1945年5月、ドイツが降伏します。日本国土もB29の度重なる空襲で焦土と化し、降伏はもはや時間の問題でした。なんとしても、日本が降伏する前に原爆を完成させなければなりませんでした。
困難を極めた原爆が完成し、ニューメキシコ州の砂漠で実験が成功したのが7月26日でした。それから10日後の8月6日に広島、9日に長崎に原爆は投下され、20数万の犠牲者が出ることになります。これだけの不要な犠牲者を出した背景には、個人の思惑、名誉、保身がありました。そして、それらは、平和のためという大義名分で、正当化されました。これが罪の世界なのです。