かつての知人に、米大リーグ野球のロサンジェルス・エンジェルスでスカウトをしている人がいました。彼は17歳のとき、友達から「何のために生きているのか」と聞かれ、以来そのことが念頭から離れず、大学卒業後、お金を貯めてアマゾンに行き、インディオの人たちと生活を共にしました。24歳のときでした。
日本で生活していると、人はお金を目的に生きているように見える。しかし、本当にお金が人生の目的だろうか。それを確かめるため、「お金のない生活」イコール「アマゾンの生活」と考えて、太平洋を渡ったのです。バナナなどの果物、ヘビ、ワニ、ピラニア、カメなどを現地人と一緒に採集、狩猟して食べるという生活をしました。そこで学んだことは、人間、お金がなくても生きていけるということでした。インディオの社会にはお金というものがありません。ゆえに、お金は人生の目的にはなりえないのです。
彼はこう言っていました。人はお金、学歴、会社、あるいは車、テレビ、コンピューター、スマホなど、絶対に必要だと思っているものがある。しかし、時代と社会がそう感じさせているだけで、実際にはそんなものはなくても生きていける。それをアマゾンの生活で実感した。何かがないという生活を一度経験してみるといい。新しい世界が開かれてくる、と。
もちろん、この時代この社会に生きている限り、衣食住のために持つほかないものは数々あります。一方、なくてもいいものもたくさんあります。一度、部屋を見渡して、考えてみませんか。
パウロはこう言います。「何も持っていないようでも、すべてのものを持っています」(Ⅱコリ6:10)と。大切なのは、所有していても、それに支配されないことです。いつかはなくなるものだと弁えて、使えるうちに賢く使うことです。
箴言はこう語ります。「気前よく施して、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんで、かえって乏しくなる者がある」(11:24)。豊かに富む人とは、よく主に捧げ、よく人に施す人です。そしてよく捧げ施す人は豊かになります。それが、聖書の原則です。