今月8日、福井県敦賀(ツルガ)市にある「敦賀ムゼウム」(ポーランド語でミュージアム)を訪問しました。敦賀は1902年から1941年までヨーロッパとの交通の拠点でした。杉浦千畝の「命のビザ」で生き延びたユダヤ人6000人が、1940年9月から翌年6月にかけて、リトアニアからシベリア鉄道9000キロ、ウラジオストックから800キロの船旅の末、上陸した港です。 ナチス・ドイツの政策で、ヨーロッパのユダヤ人600万人が虐殺されました。ポーランドにいたユダヤ人350万人中、生き残ったのは50万人、うち6000人が敦賀に来たのです。しかし、全員無事に日本に上陸できたわけではありません。旅の途中、ソ連兵に金品の大半を奪われ、中には労働力として強制連行された者もいました。 それだけに敦賀上陸は歓喜の時でした。敦賀の人たちも、無一文になり痩せ細ったユダヤ人らを親切にもてなしました。ホロコーストを逃れたユダヤ人には、戦争も差別もない敦賀の街が天国に見えたそうです。 しかし、ドイツと同盟を結んでいた日本も安住の地ではなく、ユダヤ人たちは神戸や横浜からアメリカ、オーストラリアへと旅立っていきました。 滞在中にユダヤ人が敦賀に残した品々の多くは空襲で焼失しましたが、それでも「ムゼウム」には焼け残った肖像写真数枚が展示してありました。その写真の裏には、歓迎してくれた敦賀の人々に向けて、「あなたがたのことを忘れません」ではなく、「私のことを忘れないでください」と記されています。それは、自分が存在したことを誰かに覚えていてほしいという叫びです。ユダヤ民族が通ってきた歴史の過酷さと、いつ露と消えてしまうか分らない行く末のはかなさが感じ取れます。 生き延びた彼らは、イザヤ書やエレミヤ書に登場する「残りの者」のようです。「残りの者」とは、大量殺戮された後も生き残る少数のユダヤ人のことです。彼らは「契約の民」として将来に希望をつなぎます。その中から、主の恵みを信仰で受け取り、民族と国を復興させ、アブラハム契約の「祝福の源」の役割を負う者たちが出てくるのです。 そんなユダヤ人に「敦賀は天国」と思わせた歴史の一コマは、ちょっと誇らしくなります。