子供のころ、母は私を説得するとき、「なんでもやな」(とにかくそうなんだ、ぐらいの意味)という文句をよく使いました。たとえば「なんで歩きながら食べたらあかんの?」と聞くと、「なんでもやな」でけりを付けるのです。「そんなん答えになってへん」と言い返しても、「あかんものはあかん」の繰り返しでした。もちろん、納得できませんでした。 しかし、今、考えてみると、母の「なんでもやな」「あかんものはあかん」は、案外それで正答だったのかもしれません。会津藩の「什(じゅう)の掟」も、「してはならぬ事」を七つ並べ、「ならぬものはならぬことです」と、理由を語らぬことをよしとしています。 現代教育は、「なぜ」の追究を大切にします。なぜそうなのかを自分で考えて、納得しなければ受け入れられないという姿勢を育てます。しかし、実は、倫理的な「なぜ」には(いや、科学的な「なぜ」も)、究極的には答えがありません。「なぜ」に答えて説得しようとすると、最終的には行き詰まることになります。 たとえば、「人を殺してはならない理由」を人間の理屈で説明しようとしても、究極的な答えはありません。実際、1997年の「酒鬼薔薇事件」を契機に、学者や教育者などがいろんな説明を試みましたが、みんなが納得するような答えは出ませんでした。どんな説明も、別の理屈で反駁されるのです。結局、「絶対的な理由はない」というのが結論でした。 その結論は、「父母を敬え」「盗んではならない」「姦淫してはならない」「嘘をついてはならない」などについても言えます。 こうした倫理的な命令は、子供が理屈を言い出す年齢に達する前に、「人間の掟」として、繰り返し繰り返し教え込むべきことなのです。それに反することをすれば、反射的に恐れを感じるまでに、心に刻むのです(申命記6:4~9)。ユダヤ教徒は、4、5歳からモーセ五書を、しかもレビ記を最初に教えます。理屈で理解させるのではなく、唱えさせ、反復させて、心に響かせるのです。それは、この世が人間の理屈や知恵を吹き込む前に、始めなければなりません。それが、純粋な魂を育てる方法です。