今、世界中が新型コロナウイルス感染拡大に怯え、命の危険にさらされ、経済の窮地に立たされ、この先どうなるのかという不安の中にいます。外に出て自由に活動し、働いて、道を切り開いていくということもできません。自分だけが苦しいわけではないので、人に助けを求めることも憚(はばか)られます。
しかし、その中でも、私たち教会は、信仰によるアブラハムの子孫として、社会に対し「神の国の祝福の源」として置かれています。自分たちが苦境に置かれていても、「どうすれば祝福を流していけるのか」を考えるのが私たちの務めなのです。
もちろん、私たち教会員がウイルスから守られ、仕事や学業が維持でき、家計も成り立っていくことを互いに祈り、励まし合います。しかし、それと同時並行して、苦しい中からも、いや、私たちも苦しいからこそ、少しでも身を切って他者を祝福することをしたいと願うのです。そうすることで、私たちもともに喜びたい、そして主に喜ばれたいと思います。マケドニヤとアカヤのように。
「マケドニヤとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金することにしたからです」(ローマ 15:26)。
ただし、知恵がいります。慎重さも必要です。できるだけ実質的な意味のある、賢い祝福をすることが肝要です。単なる垂れ流しではあってはなりません。
牧会部もステパノ会も主の知恵を求めて祈り、話し合っています。教会員の方々にも、何ができるか、アイデアを出してほしいと思います。突拍子のないものでもいいです。採用されないかもしれませんが、とっかかりになるかもしれません。何よりも、人の祝福になることを考えてみる姿勢が大切なのです。
このような時期、心は内向きになりやすいものです。先が見えない不安や恐れの中で、自分中心の視点で見るのではなく、神の国の視点で事態を見渡すとき、主が祝福の道を開いてくださると信じます。
コロナ禍とともに、GCCは設立18年目に入ります。ウイルスがかえって祝福を残すことになるという、したたかな信仰を示したいですね。