「神がこの宇宙を創造したのなら、その神は誰が造ったのですか」という質問を、クリスチャンではない方から受けました。
こういう質問に答えるには、質問した人がこの宇宙についてどういう考え方をしておられるか、を明確にしてから始めればいいのです。
この方は、すべての存在するものや出来事には必ず原因がある、という立場です。だから、聖書の神も、それをつくったもの(=原因)があるはずだ、と考えます。常に原因があって結果があるという因果法則の世界の中で、神も活動していると思っておられるのです。
でも、聖書の神は、そんな因果法則の世界に閉じ込められてはいません。その外側におられます。なので、何かの原因によって存在したり変化したりはしません。人間が経験により考え出した因果法則の中に、永遠なる神を閉じ込めることはできないのです。なのに閉じ込めようとするのは人間の高慢です。
そもそも、その因果法則の世界を創造されたのは、神なのです。創造者が、自分の創造した世界に縛られることはありません。(しかも、私たちは因果法則があると思い込んでいますが、それは人間が経験によって考え出した法則であって、実際には、異なる法則があるのかもしれません)。
宇宙の創造主は、人間が考えつく理屈とは関係なく、存在しておられます。
でも、理屈には理屈で答えるとするなら、こうも言えます。
聖書の神はおひとり(唯一)です。「神を創造したのは誰か」と問うのは、最初から唯一なる神を否定していることにほかなりません。つまり、一人目の神を創造した二人目の神はどこにいるのか、と問うているからです。次には当然、二人目の神を創造した三人目の神は誰か、と問うことになるでしょう。この問いは無限に続きます。意味のない単なる言葉遊びに過ぎません。
創造主は唯一です。それとは別の創造主はいません。
人間の理屈と体験で神を追究しても、決して聖書の神と出会うことはできません。人間の理屈に合う神は、人間が頭の中で創り上げた神に過ぎないのです。すなわち、偶像です。