ありのまま?

「ありのままの自分を受け入れなさい」と、よく言われます。自己受容です。ネットで検索すると、いろんな立場の人が「自己受容」を推奨しています。「自己受容」を聖書からのメッセージとして語る人も少なくありません。

 私が「自己受容」という考え方に最初に接したのは、もう50年近く前、実存主義哲学によってです。当時の私は「自己受容」に取り憑かれて、随分苦しみました。

 生まれ、性格、環境、能力、容姿、欠点など、自分のありのままを自分で責任をもって受け入れるなんて、私には不可能でした。第一に、私は、私が受け入れられるほど、生易しい人間ではありません。自分のありのままを正直に見つめれば、絶望するばかりです。第二に、そんな私を受け入れるだけの包容力や責任能力は、私にはありません。私のありのままを見たら、誰も私を受け入れられないでしょう。自己受容できない私にとって救いとなったのは、ローマ書7章のパウロの告白でした。

 私は「自分のしていることがわからない」(15)。私のうちには善が住んでいない。したい善が行えず、したくない悪を行ってしまう。「私は、ほんとうに惨めな人間です」(24)。

 パウロは、「ありのままの自分」をどうすることもできないと認めているのです。だからこそ、キリストに自分を委ねたのです。また、決して「ありのままの自分でいい」とも言ってはいません。新しい創造が必要なのです。「自己受容」という教えは、聖書にはありません。自己受容は、罪の力と性質を無視しています。罪人の私が、罪人の私を受容することなど、できるはずがないのです。「自己受容」はヘレニズムの「人間信頼」の教えです。そもそも自己受容できると思うのは、罪人の自分の罪を認めない者の傲慢です。

 さて、自己受容に苦しめられた私も、自分をキリストに委ねることで救われました。自己受容ができたら、クリスチャンにはなれなかったでしょう。

 キリストは、自分の惨めさを認め主に信頼する者を、喜んで迎え入れてくださいます。しかし、いつまでも惨めなままでいいのではありません。主は、私たちの内なる人を、日々新しく造ってくださいます(Ⅱコリント4:16)。これがクリスチャンの平安であり喜びです。 ~