当教会に、ペテロ・フィッシングクラブができて、家族連れ立ってよく釣りに出かけています。7月の梅雨のさなか、三浦半島まで出かけた帰りに、逗子の大衆浴場に立ち寄ったグループがありました。いかにも昭和から守り続けたと言わんばかりの古い銭湯だったそうです。
1週間ほどして、銭湯の老主人から、そのとき入浴した一人のお父さんのもとに手紙が届きました。妻が先に開封してみると、千円札が縦折して貼り付けてあり、その文面にちょっと驚かされることになりました。
「この度は、私の大衆浴場に遠い所から入りに来てくださり、ありがとうございました。今の時代、銭湯では生きてはいけません。各家庭に風呂があり、若い人はスーパー銭湯には行っても、大衆浴場には来ません。1日15~20人ほどで、Yさんのような若い方々は利用しないのです」。
若い家族連れが入浴してくれたことがよほど嬉しかったのだなあ、と思いきや、「本論」はその後でした。
「この度は(下駄箱の)鍵を送り返してくださり、ありがとうございました。鍵屋が一個だけでは作れないというので、困っておりました。作れるものならいいのですが、作れないので、探していたのです」。
なんだ、なんだあ、Yさんがカギを持って帰ってしまったので、老主人は大迷惑したということか。
しかし、話はそれで終わりではありませんでした。
「それを親切にY様が送り返してくださいました。Y様の人格が表れています。お元気でご活躍ください」ということで、千円札が貼ってあったのです。今どき、こんな誠実と親切を見せられて、感動されたのだと思われます。
Yさん自身は、きっと意識せず、当然の如く、「主に信頼して善を行え。地に住み、誠実を養え」(詩 37:3)を実践したのでしょう。なので、妻には、そんなことがあったとは、話してはいませんでした。妻も「あの人らしい」とつくづく感じ入っていました。
ミスは誰にもあります。大切なのは、そのあと、主に喜ばれる行動をとることです。