自宅から教会までは空堀川沿いの遊歩道を歩きます。空堀川は涸れ川(ワディ)で、天候とともに様相が変化します。大雨で濁流が歩道近くまで押し寄せる日もありますが、夏冬は完全に干上がった日が続きます。
ところが、今夏は猛暑だったにもかかわらず、干上がる日はほとんどなく、淀んだ水に茶緑の藻(モ)が川底を覆って、独特の臭いを放っていました。涸(カ)れ川でも流れがあれば、小魚が上ってきますが、淀みに残されて、鳥たちの格好の獲物になっていました。
それが9月初め、激しい雷雨があり、水が勢いよく流れました。「夕立ちを 集めて早し 空堀川」ってところです(芭蕉の俳句取り)。翌朝、岸辺の背高の草むらがなぎ倒され、川底の藻も一掃されて、清らかな流れに戻っていました。小魚がまた下流から上り、鴨(カモ)の群れが泳ぎ、白鷺(シラサギ)まで姿を現しました。
コロナ禍(カ)と酷暑の日々は、まさに川底を覆う藻のような淀んだ気分でしたが、しばしすがすがしくなりました。
「生ける水」とは、流れている水です。淀んだ水は「死んだ水」です。イスラエルでは、清めの水(洗礼の水) は、流れている水、つまり「生ける水」でなければならないそうです。
イエスはヨハネ 7章で、「生ける水」について、こう述べられました。
「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(38)。
また、4章でもサマリヤの女に、「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(14)と、語られました。
いよいよ秋です。もしコロナや猛暑などで心に淀みができているなら、「生ける水」の洪水で押し流していただき、聖霊の澄んだ流れを取り戻しましょう。一新して、収穫の秋を迎えたいと思います。