水泳の東京五輪代表・瀬戸大也選手の不倫が発覚し、日本水泳連盟は「年内活動停止処分」にしました。その処分に関し賛否両論があるようですが、私はむしろ本人が出した謝罪コメントのほうに違和感を持ちました。
その抜粋です。
「私にとってのお詫びはこれからも水泳で努力していくことだと考えています」「私の無責任な行動で深く傷つけてしまった家族からの信頼を回復し、家族からも皆様からもスイマーとして再び認めていただけるよう、一からやり直す覚悟で真摯に水泳に向き合っていきたいと思います」。
妻を裏切り、姦淫の罪を犯したことを、真摯に水泳に向き合うことで償う、というのです。日本の社会ではこういう理屈がまかり通るようです。かつて、暴力団との交際が発覚した関取が記者会見で、汚名は土俵で返上したいと言った、と記憶します。同じく、不祥事を起こしたプロ野球選手も、マウンドで償う、というようなことを言いました。でも、償うべき「プール」「土俵」「マウンド」が違います。
瀬戸選手の場合、スイミングプールの問題ではなく、「結婚倫理」という「プール」の問題です。スイミングプールで金メダルをとろうが優勝しようが、罪に対しては何の償いにもなりません。泳いで解決できる問題ではないのです。
聖書では、姦淫は神に対して犯した罪であり、悔い改めないなら、本来、死です。「お詫びはこれからも水泳で努力していくこと」ではなく、まず真の悔い改めをして、神に赦され、妻や家族に償うことです。ところが、スイマーとして成功すれば、夫や父親としての失敗がカバーできると考えているようです。問題のすり替えです。
このすり替えは、夫や妻や家族を愛していると言いながら、実は、仕事やキャリアでの成功を第一に生きている人たちにも言えることです。家族のために働いていると言いながら、夫や妻や子供たちと向き合いません。また、「神を愛する」と言いながら、神と直接向かい合うことをおざなりするのも同じです。
あなたは同じ土俵で神と向かい合い、同じプールで家族と泳いでいますか。