中学か高校で学んだ「朝三暮四」の故事を覚えておられますか。こんな話です。
「宋の国に狙公という人がいた。サルが好きで、たくさんのサルを飼っていた。狙公もサルたちも、互いに気持ちが通じ合う仲だった。しかし、狙公は貧しくなり、サルの餌を減らすことにした。サルの機嫌を損ねたくはない狙公は一計を案じ、サルたちにこう言った。『お前たちにトチの実を朝三つ、夕に四つ、与えることにするが、いいか』。サルたちは怒った。そこで『では、朝四つ、夕に三つではどうだ』と提案すると、サルたちはひれ伏して喜んだ」。
「目先の利益に心がいってしまい、騙されていることに気がつかない」ことを意味します。
内田樹氏が著書『サル化する世界』で「朝三暮四」を引用し、「今さえよければ、自分さえよければ、それでいい」という時代になっていると指摘しています。
刻々と変化する社会で、もう自分のことと、近々(キンキン)のことにしか目がいかず、人のことや、10年先、20年先のことを考える余裕がなくなっているのです。「朝三暮四」の故事から、それを「サル化」と呼びます。
コロナ禍後の社会は大きく変化するでしょうし、すでに変化しているのが実感できます。そうした中で「サル化」した人々が目先の損得で、自分中心に行動し、一過性の社会風潮を作り出します。
もちろん教会だけはそんな風潮に欺かれません。世は変わっても、私たちは変わらず聖書に立ち続けます。目先の利害で振り回されず、明日のことを恐れたり心配したりするのでもなく、聖書を土台とした希望を明日に見ていくのです。そうすれば、「今のこの時代を見分ける」(ルカ 12:56)目が与えられます。
マルティン・ルターが「明日、世界が滅ぶとも、今日、私はリンゴの木を植える」と言ったそうです(典拠不明)。私も、次の世代のためにそんな信仰を持ちたいと思います。ただ私は、「明日、天に召されることを想定しながら、柿の木を植える」というべきですが。