夕があり、朝があった

眠らずとも疲れず活動でき、脳も常に覚醒している人がいたら、その人は情報や知識を積み上げ、能力を高め、世界を支配できるようになるかもしれません。

 しかし、人は夜になると脳も体も活動を止め、眠りに陥ります。そのときには、世界はその人の手から滑り落ち、その人は世界から姿を消し、世界だけが存在するようになります。

 もし眠る必要がないなら、人間にとって世界は利用すべき素材(材料)でしかなくなります。一方、眠りしか知らないなら、人間は世界の一部にすぎなくなります。覚醒と睡眠の反復リズムがあってはじめて、「人間は世界の内に生きる」のです(という内容の本を読みました。何の本だったか)。

 創造主は、天地万物を六日で創造し、七日目に完成を宣言されました。「夕があり、朝があった」と6回、繰り返されています(創世記1,2章)。創造主は、昼と夜のリズムある世界を造られたのです。人は「神に似せて」造られた生き物ですが、他の動物同様、眠らずには生きられません。土で造られた者にすぎないことも弁え、へりくだるためです。

 でも、眠るのは単に心身の休息と回復のためだけではありません。睡眠は、脳内で記憶を整理し、思考を安定させます。なので二晩眠らないと、錯覚、幻覚を引き起こすそうです。睡眠には重要な任務があるのです。

それだけではありません。主は、私たちが眠っている間に、ご自身のわざを成し遂げられます。人は眠って余計なことをしないほうが、主にはかえって都合がいいのです。主は「まどろむことなく」「絶えずこれに水を注ぎ、誰もそれを損なわないように、夜も昼も見守って」(詩 121:3イザヤ 27:3)くださいます。

 深い悲しみや苦しみのときは、眠れなくても当然です。でも、人から「よくこんな時に眠っていられるねえ」とあきれられるほどの図太さが欲しいと思います。「あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」(詩 127:2)と信じるなら、図太くなれます。