牧師が勧めてくれたトルストイの小説です。
ユリウスといういいとこの坊ちゃんが、若い頃から放蕩三昧、何度も挫折して、キリスト教徒になろうとしますが、その都度、じゃま者(年長者)があらわれ、「キリスト教のいうことは変だし、キリスト教徒になって世捨て人のような人生を送るより、あなたにはもっとやらなくてはならない社会的責務がある」等と言っては、ユリウスを説得し機会を失わせます。
クリスチャンになりたての頃の私は、小説の中のじゃま者がユリウスに話すキリスト者批判の言葉が、多くの部分で納得できる状態でした。ユリウスが世的な富や名声、全てを失い、原始キリスト教団に入り、最初は自分の居場所が発見できず絶望している時、教団の老人が彼に感動的な言葉を述べます。
要約すると、我々がこの世で行っていることは、大きい事も小さい事も、神の仕事全体から見れば取るに足らぬ大海の一滴。人生においても、大きいものも小さいものもなく、存在するものは、真っ直ぐなものと曲がったものだけ。あなたは、まっすぐな道に入りなさい。過ぎ去った事、大きい事、小さい事など考える必要はない。大切な事は、一つの神と一つの生があるということだけだ、と。そして、小説は「このユリウスは安心して、クリスチャンとして、喜びの内に20年生き延びた。そして肉体の死が訪れたのも知らなかった」で終わります。
私は人生で二回、イエス様の直接のお言葉を夢の中で聞いた事があります。御顔も音声も記憶が明確ではないのですが、一回目は、洗礼を受ける前でした。証集にその経緯を書いています。二回目のお言葉は、先に述べたクリスチャンほやほやの時期で、①「私はお前のために死んだ」②「私はお前を愛している」③「お前は私のために生きよ」の三つのフレーズでした。目覚めて、忘れないようにすぐにメモし、その朝、妻の淑子に手渡したところ、時間をかけて該当する聖書箇所の説明を受けました。
そして「聖書をコンスタントに読んでいるから、イエス様が言葉を下さるのよ!」と玄関先で言われ、いつものように私がジャングルと呼んでいる会社に出発しました。 (森川桂造)