コロナ禍の前に、青森県の三内丸山遺跡を訪れました。今から5900~4200年前頃の約1700年間、長期にわたり存続した約500人前後の縄文時代の定住集落です。現地ボランティアガイドによると、人々は狩猟、採集、漁労そして作物栽培で生活をしていました。狩猟では、ウサギを中心にイノシシ、鹿、ムササビ等。採集では、栗、どんぐり、トチ、くるみ。漁労では、集落がむつ湾から2kmに位置していたことから、鯛、ぶり、鯖、ヒラメ、あわび等の豊富な海の幸。そして、作物栽培では、豆、ひょうたん、山芋、エゴマを作り、更には栗の木、葡萄、木イチゴを育てていたそうです。
創世記には、神は人間が海の魚、空の鳥、家畜、地の全てのもの、地をはう全てのものを支配することを許された、とあります。これは、個人的解釈では、神は人間にこの地上をうまく統治、管理せよと命じられたのだと思います。今風に言うと、ガバナンス(統治)をしっかり実行しないさいということです。
さて、この三内丸山遺跡には、弥生遺跡に見られるような戦いのための土塁や壕、柵はありません。すなわち、守らなくてはならない食料備蓄はなく、まさに出エジプト記のマナがその日ごとに与えられていた状態、平穏、平和な時代です。
人間が知恵を働かせて米作りを始め、高床式倉庫に備蓄する弥生時代から貧富格差や身分格差がスタートし、ムラやクニが出現するのです。しかし、それ以前のこの縄文集落では、国家が存在せず、人々は自分たちのことを日本人とは考えずに生きていただろうし、日本語もない時代にお互いどのようにコミュニケーションを取っていたのか、本当に興味は尽きません。
ちなみに、この縄文前・中期の時代は、今より気温が2度程高く、「縄文海進」と呼ばれているように、現在の「海なし県」―埼玉、栃木、群馬まで海が入り込んでいました。地球温暖化が進むとどうなるかのヒントが与えられています。数百年後の日本はどのような地形になって、どのような人口分布になっているのでしょうか。神のみぞ知る、です。(森川桂造)